忠烈祠は壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の際に、朝鮮半島に侵入してきた倭軍と戦い、壮烈な死を遂げた釜山地域の護国烈士の英霊を祀る聖域です。
壬辰倭乱は、日本を武力統一した豊臣秀吉が、政権安定と領土拡大を図り、朝鮮に出兵した侵略戦争でした。
当時の朝鮮は隣国情勢に疎く、防備態勢も備わっていない状況でしたが、倭軍は鳥銃(「種子島銃」の朝鮮での呼称)という新しい武器で武装し攻め寄せ、朝鮮側がこれを防ぐには、あまりに人が少なく、勝ち目などないように見えました。しかし毅然とした気概で戦い最期を遂げていきました。
先烈们在寡不敌众的情况下英勇奋战到生命的最后一刻。
現在の忠烈祠は1605年(宣祖38年)、東莱府使尹暄によって東莱邑城南門の内側に忠烈公宋象賢を祀った宋公祠が建立され、毎年祭祀を執り行ったことをきっかけとし、1624年(仁祖2年)宣慰使李敏求の建議で「忠烈祠」という扁額を賜り、釜山鎮城で殉節した忠壯公鄭撥を併祀しました。
その後、1652年(孝宗3年)に忠烈祠を現在の位置(安楽洞)に移し、烈士の忠節と学問を後世に伝えるために、講堂と東西齋を建立、安楽書院と名づけて祠宇と書院の両機能を備えました。
1709年(肅宗35年)に、忠烈公と忠壯公が殉節した時に共に忠節を全うした梁山郡守趙英圭、東莱敎授盧蓋邦、儒生文德謙、梁潮漢、裨将宋鳳寿、軍官金希寿、傔人申汝櫓、鄕吏宋伯、府民金祥らの位牌を祭る別祠を宋公祠跡に建立しました。
1736年(英祖12年)には別祠に祀られていた位牌を忠烈祠に合祀し、1772年(英祖48年)には多大僉使尹興信公も共に祭り、宋象賢公と鄭撥将軍の後を追って殉死した金蟾と愛香の祠を忠烈祠の東門の外側に建立しました。
忠烈祠はその後、幾度か改修と補修を行い、現在は95,804㎡の境内に、本殿のほか 15棟の建物があり、釜山地域で殉節した93柱の位牌を奉安して、毎年5月25日に多くの市民により厳粛に祭祀が執り行われます。